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2026/7/7

【死への先駆的覚悟性】みんなで創ろうライナーノーツ完成!【特別長編ライナーノーツ】

◾️特別長編ライナーノーツ

 

遠藤仁平の音楽活動は常に死と向き合う旅だった。
COCK ROACHの1stアルバム「虫の夢死と無死の虫」は、漠然としたタナトフォビアを抱えた弱冠二十歳の若者が、滔々と死への不安、およびそれと表裏一体となった希死念慮を吐露したような作品だった。
一転して2ndアルバムである「赤き生命欲」では、より明確な実体を持って捕捉された”死”と言うイメージに対して、半狂乱になりながらもそこから逃走し、そして逆転的に貪欲に生を希求する心象風景を湛えていた。
そして3rdアルバムである「青く丸い星に生まれて」と、解散後に発表される「ユリイカ」を持って、COCK ROACHは一度死ぬ。それはある意味での1stから紡がれた希死念慮の結実と言い換えることもできたと言える。
一度死に、蘇った遠藤仁平は新たに”無限マイナス”と”博士と蟋蟀”というプロジェクトを開始する。
前者の無限マイナスでは、依然としてあらゆる楽曲で死を歌ってはいるものの、そこで扱われる死は正体不明の恐怖存在ではなく、自身や愛するものに到来しうる死を以って、対位的に生を浮き彫りにするための装置としての役割が強くなった。
一方の後者の博士と蟋蟀では、無限マイナスによって剥がれ落ちた鬱病性を一手に引き受けるかのように、暗黒の詩世界を再び構築する。
COCK ROACHで探求された混濁した死生観は、生への執着という部分を無限マイナスに、死への執着という部分を博士と蟋蟀に託されたとも取れるだろう。
しかし無限マイナスはある悲劇的な理由により活動を停止し、博士と蟋蟀も同様に活動を途絶する。この時を境に遠藤仁平は音楽シーンの表舞台から長く身を引くことになる。
それからおよそ10年。
長きの沈黙を経て突如、COCK ROACHが復活を果たした。新たなアルバム、「Mother」を携えてである。
告白すると、当時の私はこの報せを聞いた時、期待感というよりは不安感を覚えた。新たなアルバムを希求するには、私には彼の不在の歳月はいささか長すぎた。10年以上のブランクのあるミュージシャンが、しかも15年前のバンドをわざわざ復活させて出す音源、得体がしれなさすぎる。ましてや、「ユリイカ」と言う形で完璧な幕引きを見せたバンドを復活させる意味はいかほどか。彼らに限って同窓会をするわけがないのは自明である。しかし、その音源を聴き、その姿を直視した瞬間に、何か全ての魔法が解けてしまうのではないかという不安を私の中に発生させていた。
そんな懐疑派の鼻っ面を完膚なきまでに明かした「Mother」がいかに傑作だったのかをここで議論する必要はないだろう。
そこで歌われる”死”は孤独な青年の肥大した妄想ではなくなっていた。10年と言う時間の積み重ねを感じさせる、成熟した一個人としての死生観と、最新鋭の技術で更新された楽曲群は、紛れもなく彼/バンドのキャリアの最高傑作であった。
そして2026年、COCK ROACHの再びの最終作と銘打って世に放たれた本作が「死への先駆的覚悟性」である。
一聴して私が真っ先に抱いた印象は戸惑いであった。
彼が幾度も征伐したかのように見えた、もはや「Mother」では遙か背景に後退したと思われた”死”への渇望、それが冒頭から炸裂している。否、片手で数える程度の話ではない。73分間、アルバム全体に渡り強烈な死の臭いが充満している。
これは一体どうしたことだ。「Mother」で到達したかに見えた悟りの境地はどこへ行ったのか?さあ、生きなさいと、生を鼓舞したあの眼差しはいったいどこへ隠れてしまったと言うのだろうか。この人、『めちゃめちゃ死にたがっている』。
「Mother」の延長線を期待するリスナーを突き放すかのような懺悔を以って始まる「#1 神は僕を愛さない」と、COCK ROACHとしては異例とも言える性急なショートナンバー「#2 零と弌」から、このアルバム全体を支配する漆黒に彩られた死世界と、一方でかつてないほどの苛烈な躁状態とも言える激情が迸る。
さらに前作で顕現したSYSTEM OF A DOWN的とも言える狂気性と悲哀をないまぜにした「#3 犠牲の血」、および無限マイナス~博士と蟋蟀期を経て醸造された”機械”ビートに駆動牽引された遠藤ラップがあまりにも得体が知れない「#4 生都Dystopia」で、血に塗れた人類のクロニクルと、それを憂鬱に眺める心情を高らかに歌い上げる。
続く「#5 我が肉腐敗する森」の美しい旋律は本作のハイライトの一つだろう。しかし「突発するスコールに打たれて/落雷を心臓で受け止めた/ゆっくりと空を仰いだ」と歌われる内容は紛れもなく自身の死の瞬間を描写している。
半狂乱のまま疾走するかのような本作全体の空気は「赤き生命欲」のようでもあるが、この圧倒的な希死念慮はむしろ「虫の夢死と無死の虫」を思い起こさせる。
一方で楽曲の持つ衝動は活動30年に及ぶバンドとは思えないほどに迸るエネルギーを感じさせ、その対比があまりにも歪なバランスで成り立っている。
もしCOCK ROACHと言うバンドがこれまで存在せず、2026年に1stアルバムをドロップしたとしたらこのような作品になるのではないか。(余談ではあるが、そんなことを思いながら1stと本作を交互に聴いていると、スマートフォンの画面上に並んだ両作を見比べて、本作のジャケットの構図が完全に「虫虫」のものと同一であることに気づき、スピりそうになった。深夜2時ごろのことである。)
盟友THE BACK HORN譲りの攻撃的なギターが目覚ましい「#8 量子ネオン街素粒子竜宮城」では、遠藤の脳髄内をそのまま放り出したようなバロック的前半部に加え、後半部ではそれこそドグラ・マグラ的呪詛とも取れるスポークンワーズが炸裂し、深淵から見つめ返されるかのような薄気味さをリスナーにもたらす。
既発曲の再録版として「#09 鴉葬」「#11 Monochrome Butterfly」が収録されている点も興味深い。ともに「決死」を歌った楽曲であるが、録音環境も相まって原曲の纏っていた虚ろな表情が一変し、あまりにも高い解像度で「決死」の迫真性を捉えている。一方で両曲に挟まれた「#10 死海の祭灯」は、本作の中では前作「Mother」の気配をおそらく唯一背負う楽曲であり、それゆえに僅かに発する色彩の角度が異なるが為、混沌とした本作の中で一服の清涼剤としての存在感を放っている。
しかし、極め付けが終盤に配置された「#12 鎮魂歌」「#13 サーカス小屋と宇宙と」であることは間違いない。ここまでで完全に内面に向かっていたヴェクトルが突如として──おそらくすでに逝去した──親しい他者に向けられ、強烈に一人間としての遠藤仁平が立ち昇ってくる。これは前作の「花と瓦礫」/「cosmo ballet」/「青い砂に舞う君の髪」のその先とも捉えられる優美さを湛えてはいるが、一方でかつて歌われた超越的視点、希望的側面は明らかに後退している。錯乱状態の神経回路が突如として整然と再配線され、立ち所に素面に引き戻されるかのような様は、さながら、悪夢から覚醒した後も、同種の悪夢が続いていることを直視してしまったかのようでさえある。
かくして、無限マイナスと博士と蟋蟀で分裂した遠藤仁平の死生観は、再びCOCK ROACHという姿で合流を果たし、生の肯定を体現した前作と、そして対照的に死に塗り潰された本作とに昇華された。
ところで、本作を理解する上での補助線として、遠藤仁平、村田智史(真空ホロウ)、三好啓介(Q昆)が配信するポッドキャストの”死考界”がおおいに助けになる部分があるのは間違いない。大病を患い、入院し、手術を経る中で彼は生死の境を彷徨った。そこでの経験はラストナンバーである「#14 死都Utopia」で綴られる。
本人の口からも語られているとおり、アルバムの表題に冠された「死への先駆的覚悟性」とはハイデガーの存在論からの引用である。この言葉の意味するところは、自身の死への可能性を隠蔽せず、あるがままに引き受けることによって、自身の存在の可能性を最大限に拡張することにある。尤もこのアプローチはそれこそ、これまでの遠藤仁平のあらゆるプロジェクトで一貫して採用されてきたフレームワークでもある。
その一方で”死の先”がハイデガー的哲学から垣間見られることは通常稀である。あくまでそれは、あらゆる存在に平等かつ確実に訪れる死という現象を、生の視点から正確に捉え、生の核心を探求するという”生ありき”の作業である。
しかし遠藤仁平は通常の現存在が到来することのできない──あるいは越境することにより帰還不能となる──その境界に立ち、その原野を垣間見た。
境界に立つことで常人が到達不能な解像度で死を捉えた男は、ついに討伐したかと思われた死に再び魅入られ、嘗てないほどに死を希求するアルバムを作り上げた。
ジャケットのモチーフとして用いられている「虫の夢死と無死の虫」の意味するところは、或いは過去への揺り戻し、という意味合いにも捉えられるだろう。しかし、ある視点で見れば同様の座標にあるそれは、別の視点で見ると、この次元からは本来知覚不能なレイヤー上に存在するオブジェクトが、何かのはずみで現に投影されてしまった影のようでもある。
すなわちこのアルバムは”螺旋階段の二週目”に位置するアルバムであり、”死にぞこなった男の叫び”でもあり、”本来この世には存在することはなかったBUG”とも言い換えられる。
これまで私は、ギリギリ彼と目線が合っているような気がしていた。死と云う通常忌避されるテーマから楽曲を作り上げる彼の作品は、しかし我々が常にどこかで等しく恐れる死に向き合う処方を授けてくれる武器でもあったからだ。
しかし今、彼の目線はもはや私とは全く別の場所に投げかけられているのだろう。それは一抹の寂しさを我々に与える。そしてそれゆえに、本作は圧倒的に美しい。
追伸: 先日、幸運にも「帝都救済Ⅻ」にてCOCK ROACHとkokeshiの共演を目にする機会に恵まれた。そこでの遠藤仁平は、しかしあまりにも生気に溢れ、およそ1時間のパフォーマンスの最中、観客一人一人の目を見て歌っていた。やはり私は、また遠藤の、彼等の作る音楽が聴きたい。そう強く願わずにはいられない。