102号室

 

「少年よ大志を捨てよ。この老人の如く」

 

大きな夢を抱く事がさも素晴らしい様な風潮の中で歳を重ねてきた。
幼い頃、学校で何度となく「将来の夢は?」というテーマで文章を書かされた。

小学生の頃、この質問に本当に悩み「たわし」と書いたら先生に「遠藤。どうしてたわしと書いたんだ?」と聞かれて「たまに固い物を磨くだけで、あとは何もしなくて良さそうだからです。」と答えたら本気でおつむを心配された。

十代の頃にはバイトの面接で名前も知らないおじさんにそれを聞かれ、何も答えられなかった事で不採用となった。

バンドで少し世の中に出ると、周りの大人は「目標CDセールス」「目標観客動員」「メジャーデビュー」「海外デビュー」とうるさかった。

夢?それをはっきりと答えられないのは今も昔も変わらない。私に明確な夢など無い。

偏見だ!と言われればそうかもしれないが、特に団塊の世代の方達に多い。「夢を抱け!」「より大きな夢を!より上を目指せ!」というのが団塊ジェネレーションの共通したプロパガンダに思えてならない。

それを否定も肯定もしないが、どうか他の世代に押し付けるのだけはご勘弁いただきたい。

何故に少年や青年は明確な夢を抱かなければならないのか?

ドリーム。ビジョン。コミットメント。これらが無ければ希望を持って生きる事ができない。何かを達成できない。って本当か?

蜚蠊博士に言わせれば答えはNOだ。
夢なんて無くても私は40歳まで生きている。多少視力は落ちたがまだまだ眼は輝きを失っていない。

夢を抱く人、人生の目標を明確にできる人は本当に羨ましい。その方達を羨望の眼差しで見る事はあっても、もちろん否定はしないしできない。

私が言いたいのは夢を抱けない人、人生に目標が無い人が駄目!みたいな世の中は生きづらい人もいるよという事。

又、夢がある人だけが努力できる!みたいなのが一番腹が立つ。

明日のごはんを食べる為に今日たくさん働いた。
好きなアーティストのライブ行く為に今日からバイト始めた。
今日の晩酌を美味しく頂く為に4キロジョギングした。

私はそんな人生である。今までもこれからもこんな人生である。これに夢も希望も無いと言われても「はいそうなんです。」としか言えない。

この文章の題名は「少年よ大志を抱け。この老人の如く」というクラーク博士の名言を少し変えたものだ。しかしクラーク博士の名言を否定するものでは無い。

クラーク博士は少年の夢は私利私欲のもとにあってはならないという考えを述べている。文中に「抱け」と命令口調で翻訳されているから「抱かなければならない」と捉われがちだがそうでは無い。

むしろクラーク博士の言いたい事と日本人が解釈している意味は逆に思えてならない。

私のクラーク博士語録訳だと
「いいかい少年。人生は私利私欲に振り回されてはならない。金や名声に媚びてはならない。自分の志さえ大切に抱いて生きれば、富や名声が無くとも人生は素晴らしい。ここにいる老人がそうであるように」である。

「大志」イコール富や名声、大きな夢と捉えると「大志を抱け」は夢を抱けない者にとって重い言葉に聞こえてしまうのだ。

「大志」とは自分だけが知っている自分の大切なものと解釈した方が良い。
「大志」が晩酌であっても、ライブのチケットであっても、一冊のマンガでも、ゲームソフトでも何でも良い。

「大志」を重く考え過ぎて、出世する事、誰かに認めてもらう事、金持ちになる事、有名になる事、ヒーローになる事と捉えると鬱になりがちだ。

どうしても後文の方が日本での解釈になりがちなのだ。そういった観点から

「少年よ大志を捨てよ。この老人の如く」
ともう一度言ってみる。

2020年 2月26日 蜚蠊博士