103号室

 

「バーチャルはリアルを超えない。超える必要はない」

 

少し前だが3DTVというものが電気屋に並んでいた事があった。「これから映像は3D」みたいな気運、流れが来るかに思われた。

あのトイドールズみたいなメガネをかければたちまち、映画のみならずスポーツやライブ、ゲームさえもリアルに近い臨場感を家庭で体感できるという未来を期待した人は少なくないだろう。

しかしその期待は大きく裏切られた。技術、開発途上のままニーズが途絶えたという問題はあると思うがここまで3DTVのニーズが伸びないとは。過去のLDやMD並みに短命であった。

時は流れ、現在では映像における3Dという概念は葬り去られ、数年前からVRという新たな概念が一般市場に誕生した。

3DとVRの違いはひとつに自分の意思で視点や視野を360度変えられる事。そしてそれにより映像やゲームの世界に自分が入り込むという感覚が強いという点だろう。

VRゴーグルなどはまさに、リアルに近い体感でその世界を擬似体験出来るという触れ込みである。

実際にどうか?

体験する機器やコンテンツによって異なるし、動画やソフトの出来不出来によっても違うと思うが、、、、

私個人の感想としては3DTVと同じ末路を辿る気配をプンプン感じてしまった。

3DTVより未来を感じる部分は多々あったが、どうしても3DTVと同じペラペラ感を感じてしまうのだ。

もちろんVR。バーチャルリアリティとリアルは一緒くたに考えてはいけない。バーチャルリアリティはリアリティであってリアルでは無い。

あくまでも娯楽上の擬似体験であり、それを踏まえながら楽しむものである。

しかし3DTVとVRゴーグルの大きな共通点はリアリティを追求している部分にある。
リアルを追いかけるからこそ、追いかけ過ぎるからこそ生じるリアルとの差。

なので観る人が体感的な部分でリアルと違う部分が生じるとそれが自然と「違和感」につながってしまう。

そもそも、この「リアルに近付けよう」「リアルを超えよう」感はバーチャルの世界に本当に必要か?

ゲームしかり、動画や映画もバーチャルとした時に観る人に実体験感を与える事は本当に必要か?

私には必要無い。

ゲームは2Dで充分だと思うし、映画だって動画だって飛び出さなくてよい。
映画の世界に自分が入り込んで実体験するより、2Dで受けた映像やそこから生まれた感情をさらに自分の脳で咀嚼、想像する事の方が数倍面白い。

ゲームや映画の場合、リアルには存在しない物。リアルでは会う事ができない想像上の人物や生物、景色との触れ合いという一興がある。この側面においてVRのニーズは確かにあるとは思う。もっと近くで観たい!もっと近くで触れたい!と。

でも私はこの触れ合いを2D上までにとどめたい。その先を想像する方が遥かに面白いし遥かにリアルなのだ。
VRだと目の前でペラペラに現れたそいつらと触れ合う事で逆に興醒めしてしまうのだ。

初期ファミコンのドラクエを初めて動かした時を例えとする。

画面に映るLEGOの様な勇者が「勇者」なのでは無く、画面上のミニ勇者を動かしながらもっと勇猛でカッコいい勇者を想像しながらプレイするのだ。
プレイヤーそれぞれに自分だけの勇者像があるのが面白い。

バーチャルとは、リアルとのある一定の距離感があるからこそ非日常でありファンタジーだと思うのだ。

アーティストのライブやスポーツ観戦に関しては、現地に行かなければ体感できない熱気や熱狂、ひとけや温度、風や波動が確かにある。
これらをVRで表現できる様になるのは少しまだ時間が掛かるだろう。
やはりそれを体感したい時はリアルで現地に行き体験する以外に方法は無いのである。

動画やTVで充分であれば映像で観れば良い。気軽に娯楽としてこれらを「現地に行かなくてもそこそこ」というのが動画やTVの良さだと思う。

それをさらにVRゴーグルを使って「現地に行かなくても現地に行った人と同じ体感を得たい」と求める人が、ニーズが、現時点のVRに多くあるとは思えない。
少なくとも今のVR技術では一回体験したらもう充分だろう。

以上の事から映画やゲームと同様にライブやスポーツもまた、VRよりは映像や動画の方が私は楽しめる。

ペラペラの擬似体験よりもリアル派。ペラペラの擬似体験よりも2D派である。

さて本題。

もしもこれから先、技術が進化し、五感全てにおいてリアルに限り無く近い、いや、リアル同然のVRが表現できたとしよう。

私自身、あり得る話だと思っている。

リアル体験者の記憶から映像、温度、匂い、味、触覚、波動など現実というものを構成させるありとあらゆる五感を様々な角度から抽出、データ化しプログラミングする。
そしてリアル体験者以外の他者にあたかもリアルの様に体験させる。脳内再生させるという仕組み。技術開発はいつかそれを可能にするだろう。

イメージ的にはサイコダイビングに近い事ができる様になる未来を私は予見する。

さらに、バーチャルリアリティの体験者の記憶から「この体験はバーチャルリアリティである」という記憶を根こそぎ消却する事ができたら、、、。
それはもうリアルという他無い。又は平行現実に近いものではないだろうか。

夢を見ている者がその体験を夢と知らずに夢の中の世界で行動している様に、バーチャルリアリティ中の体験、世界がリアルにすり変わるのである。

人間が人間の体験を作れる。体感を操れる。つまり、考え方によっては人間が人間の神になるという事。

人間が人間の現実【リアル】を生み出せる様になるのである。

そうなると、これはリアル?バーチャル?との垣根は必要な様で必要なくなるだろう。
本物も偽物も全てリアルと疑わない脳なのだから、全て彼にとってはリアルとなる。

私事だか幼き日、こんな事を考えて本気で悩み苦しんだ事があった。

「僕が見ているこの世界の全ては、僕という魂が何者かに見せられているフェイクなのかもしれない」

この考えを抱いた事のある人は考えを深めれば深める程少なからず落ち込み、何が真実なのか?と何も信用できなくなる時期があるだろう。
自ら深く考え進まない事をお勧めしたい。

リアルとバーチャルは別々であり続ける事、別々で考える事を唱え続けたい。

全てが叶う未来に私は希望を感じない。人間は叶わぬ未来があるからこそ、想像し努力し、希望を見いだすのだろう。

「バーチャルはリアルを超えない。というより決して超えてはならない。」
と唱えながら花粉症で涙ぐむ眼球に目薬を一滴垂らしてやった。

2020年 3月20日 蜚蠊博士