104号室

 

「隣にそっと死を座らせて」

 

生きる事より死ぬ事を想像する時間が長かった。生きながらもずっと死を想像する。未だ見ぬ死という世界への興味と死そのものを分析し、
知りたいという渇望は日増しに私の心と脳を侵食していった。

死の香りがする芸術や文学にしか触れてこなかった。
何故か幼い頃から生命力に溢れたモノは苦手だった。

本を買う時も表向き陳列モノや流行りモノに懐疑心を抱く事が多く、ひっそりとカビや苔の生えそうな古本屋で死臭のする本ばかりを探してきた。

映画も全て。音楽も全て。漫画も全て。小説も全て。
死の香りがする一般的には暗いとされるものばかりを好んで食べていた。
そしてそれらの栄養で私は大人になった。

死の話。これを共有できる相手は限られる。
本気でじっくり死生観を語り合うにはまずある程度の信頼関係を構築しなければならない。
上澄み液だけペロペロ舐める様な当たり障り無い薄い会話はまっぴらだ。死の話をするにはお互いが刺し違えて死んだとしても後悔の無い相手とするべきだ。
互いの死生観を晒し、包み隠さず話しても真剣に対峙し合える相手。
血塗れの死の会話は実際に血を塗り合う事は無くとも、それ以上に深い契りを交わす事ができる。

しかしながら少しでも公の場で死の話を真剣にするとオカルトだとか、根暗だとか言われる。
さらに深く死の話をすれば精神が病んでると思われるケースもある。宗教勧誘や、かまってちゃんと勘違いされる場合もある。

何故、死の話を日常的にすると面倒臭い顔をされたり失笑されたりする事が多いか。

それは大半の人が死をリアルに捉えていない証拠である。死を深く考えていない証拠である。
悪い事では無いかもしれないが、現代の日本において死は日常から最も遠い現実なのかもしれない。

今の日本の芸術、音楽、映画やマスメディアは前へならえで死臭のする残酷な描写を嫌うし、セクシャリティーが強い表現は禁止されている。
つまり人間の本質とも言えるタナトスとエロスを排除し、避けて通った作品のみに広域的発信が許されるのだ。

死や性の事は隠れて発信、受信し、隠れて語らなければならないという風潮が、
少なくとも死を深く考えたり語り合ったりする事を日常から遠ざけているのは間違いでは無いだろう。
そうなると私達はますます死の事など他人事だと錯覚してしまう。
様々な事に隠蔽体質な日本人の悪しき実例のひとつと言えるだろう。

また、命の危機に晒される事の少ない平和な環境、生命力に溢れ、肉体的に死の心配をしなくて良い状態の時ほど人間は「必ず死ぬ」という事実を忘れがちになる。

死を追いかける事は良くも悪くもない。しかし、死という誰もが体験する現実を生きているうちにできるだけ身近に置く事をおすすめしたい。
それは「常に死を覚悟せよ!」という意味では無い。

もし不慮な事態で自分の死が眼前に迫り、焦った様に命を懇願するくらいなら自分自身の死を今のうちにじっくりと考え、
死における自分なりの哲学くらいは準備しておいた方が良い。

多かれ少なかれ、誰もが死の恐怖に打ち震える夜がある。誰もが孤独に死の哲学を探究し、死の矛盾と戦って生きている。

その中で自身の死ともっと会話し認識する事。もう少し隣人と死生観を共有、交換する事。で生き方や立ち振る舞いが良き方向に変わると感じる昨今である。
人間は自分の弱さを認めて、はじめて人に優しくできる生物だと思う。

私自身、これからもっともっと自身の死や人間の死というものに向かい合って生きて行こうと決意する。

死を考える事。それは生を大切に考える事。

死を考える事。それは命を大切に考える事。

死を考える事。それは自分が孤独な存在であると認める事。

死を考える事。それは互いに孤独な存在である事を分かち合う事。

 

2020年 5月5日 蜚蠊博士