コラム[ポケットの中の生と死]

僕が今まで通過してきた生と死の哲学を簡単にまとめてみました。
暇な人は読んでみてください。

【1】はみ出した死

生まれながらに危篤でした。
自分では憶えていませんが、相当危なかったらしいです。
僕はギリギリ生きながらえて、乳児期を過ごしたらしいです。
医師や両親の必死な支えに助けられ...。
なぜ、胎児や生まれたばかりの赤ん坊がよくなくなるのか?
『生』という舞台に立ったばかりの存在が、なぜ多く『死』の危険にさらされなくてはならないのか?
胎児は母体の不健で簡単に死に、生まれたての赤子も誰かの世話無しではすぐに死んでしまいます。
あたりまえの様ですが、元々、生物が生まれながらに独りで生きていく能力を持っていたとしたら、もっと多くの生命が効率良く生き残るでしょう。
これを考えると、『生物の生誕時の弱さ』はあたりまえとは言えない気がします。
これ程の進化を遂げてきた人間ですら、誕生から意思を持ったり、歩いたり、飲んだり食べたりができる赤子はいないのはなぜでしょう?

僕はこんな事を考えました。
もしも一つの生命が生→死→生→死→生、とループするものだとしたら、胎児や赤子は限りなく死に近い生命体です。
そして生命力の減退した老人や病人も又、限りなく死に近いと言えるでしょう。
死に近づいてゆく老人が、記憶を徐々に失い、誰かの世話無しで生きていけなくなる様子は、まるで生まれたばかりの赤子を見る様でもあり、次に生まれてゆく為の準備をしている様にも見えるのです。
そして生まれたばかりのシワだらけの顔をした赤子が、徐々に肌に張りを得、記憶や意思を宿していく様は死後の老人が甦っている様にも見えます。

僕はここで、輪廻転生を信じるか信じないかを言いたいのではありません。
生命がループするにせよ、しないにせよ、必ず生命は弱い姿で生まれ、弱い姿で死にます。
誰かの世話がなければ死んでしまう形でです。 生命の入り口と出口には、必ず誰かに頼るのです。
生命力溢れる青年期、成人期、中年期にはそれを忘れてしまいます。 孤独=死、であった時の乳児期と記憶は薄れていきます。
最後まで独りでも生きていけると思っている人は『死』というものが眼前に訪れて初めて 『生かされていたんだ。』という事に気がつくでしょう。

『生命は生かし、生かされ成り立っている。』その事を忘れないように、人間は、生物は一番弱い姿で生まれ、一番弱い姿で死んでゆくのかもしれません。

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